徳本上人名号碑

 徳本上人は、江戸時代の念仏行者で全国的にも高名であり、ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱え日本各地を行脚し、庶民の苦難を救った清貧の思想の持ち主です。
  信者は、近畿、東海、北陸、信州、関東地方にまでも広がり、現在でも「徳本講」は引き継がれ、その清貧の生き方は時代を超えて人々に大きな影響を与えています。
  上人は、宝暦8年(1758)和歌山県日高町久志の農家に生まれ、幼名は三之丞といいました。
  4歳の秋、遊び友達の死に驚き嘆かれ「友達は何処へいったのか、また会うことができるのか。」と、母に聞かれました。母は、「死んだ人にどうして会う事ができますか。」と答えましたが、泣き叫ぶ三之丞をみるにしのびず「およそ死ということは、生命のある者の誰一人免れるものはない。一旦死んだものが帰ってくるという理由もない。今の別離を嘆くよりは一刻も早く阿弥陀仏に頼り、お念仏を唱えれば極楽浄土で会うことができます。」と諭して教えました。
  この母の教えが幼子の心の奥底に刻みこまれ、いつとなくお念仏を唱えられるようになったといわれます。
  27歳の時に財部村(現御坊市)の往生寺大円和尚に得度を受けて以後は、修行と行脚の生活を送るようになりました。
              (日高町教育委員会作成 : 念仏行者『徳本上人』パンフレットから一部抜粋)


 仏教大辞典に、次のように紹介されています。(冒頭と末尾の一部分のみ)
 紀伊の国日高郡志賀村久志(現和歌山県日高郡日高町久志)の人。姓は田伏氏(一説布施氏)、幼名三之丞、名連社号誉称阿と号す。父は三太夫、母は塩崎氏。宝暦8年6月22日(1758)を以て生る。4才隣家の小児を急死せるを見、夙に厭欣の心を生じ、稚戯にも唯仏乗を慕う。9才出塵を乞うも父母許さず、16才自ら勤行式を定めて精進念仏し、又農事の余暇、毎月大滝川月正寺に籠りて別時念仏を勤め、時に又老翁より一枚起請文を授かり、益称名を励み、18才以後常坐不臥を例とす。」 「文政元年(1818)9月宿痾増発し、自ら臨終近きを知り、15日弟子に命じて別時念仏を修せしめ、23日諸弟に遺嘱して曰く、我生涯一枚起請文を以て自行化他の鏡とす。汝等又等しく此の遺訓を守れと。病革ますとも常坐不臥を廃せず。10月6日斎を取り高声念仏して寂す。年61斎。辞世に「南無阿弥陀仏 生死輪廻の根をたヽば 身をも命もをしむべきかは」とあり。世に徳本行者と称す。」                                                参考文献 ネット検索


 徳本上人の筆になる「南無阿弥陀佛」の名号碑。
 徳本上人は、1758年に生まれ木魚と鉦(かね)を激しく叩く独自の徳本念仏をひろめ、各地に念仏講をつくり庶民の苦難を救いました。
 晩年 江戸小石川伝通院一世となり、尾鷲の「念仏寺」に滞在して、当地方に念仏をひろめました。(尾鷲市民俗文化財)

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 各寺と地蔵堂の境内

  綱不知地蔵(名号碑  講中碑)   本覚寺(貝寺 来迎寺