駒木根の生祠
 和歌山県立図書館に、紀藩金谷孫左衛門正陳の「南紀旧疎集」あり、表紙に「孫左衛門知明より四代先、郡奉行相勤、其節熊野へ卸用にて参、此書を写、自分見開所々認人侯由申伝」と別筆で書いてある。内容は和歌山から南紀の名所の和歌を主として録したものである。年代は知れぬが、知明は恐らく明治に生き残った人で、四代伝えてきたこの写本、否大祖父の手記をナニか事情あって図書館に寄付する際、以上の由来を書きつけたものだろう。若しそうだとすると、明治15.6年から70年位以前一一文化・文政ころのものであるまいかと考えもする。この旧境集のなかに左の 一節がある。
  瀬戸の内 と云ふ小き入江の家に先年頼宣卿瀬戸に被為成之時和舟より被出有しに駒木根八兵衛正次卸供仕りしに彼入江に人家一軒有、親子三人有、御意になにをいとなみくらし侍るやと聞き候へと仰ければ正次畏て聞けるに釣をして世をわたり侍と漁師答侯由申上る。御意に何にても望候へと申せとの御事也に正次行向で御意の趣申聞ければ引網披下候はゞ魚を取、いとなみにいたし侯半と申ければ其段言上す、御書に宮地久右衛門に申付網を調とらせとの御事也。其段久右衛門に申、網を調とらせけり、夫より段々家もさかへ今は家数多なり一つの浦に成けり、正次が影なりとて駒木根八右衛門大明神といはゐ込、杜を建、所の氏神と敬なり、存生に神にいはゝれしも珍しき事なり
 この生祠は早く失われて昭和7年加藤玄智博士が調査に来た時すでにわからなかった。しかし瀬戸浦では昔ボラ網がなくてポラが漁れず、綱を造りたいが費用が出来ず苦しんで居るのを南龍公が知ってボラ網を賜わったので、ボラの大漁ができて非常に喜んだと口碑が残っている。以上を手記した正陳も親しく駒木根の生詞を見たわけでなく、誰れかから話を聞いて備忘に書き込んだにすぎねと患うが、とにかく南龍公か外の藩主か、或いは紀藩士かは知らぬが、瀬戸の漁家へ網を恵んだことがあるのだろう。なお正陳手記のはじめの「瀬戸」は半島を総称するもので小さき入江というのが瀬戸か江津良にあたるわけである。                  参考文献 白浜温泉史 昭和36年4月5日発行