掘割を出ると、直ぐに馬目谷の池が見える。透明度100%飲料水に出来るかは別にして綺麗な水です。 鳥達の水飲み場なのでしょう何羽もいた。 Photo/2005-03-05 |
上の絵図は、瀬戸浦絵図(江戸時代)(瀬戸部所有)の部分カット。 尚、地名などは 、同じようにコンピュタ処理した。 |
江戸時代、御三家、紀州藩の領地 田辺の家老安藤家の城があり、その領地 慶安3(1650)年瀬戸村に初代藩主徳川頼宣公の別邸(瀬戸御殿)建築 瀬戸御殿について 南龍(頼宣)公が瀬戸に来た目的は、一回のお成りが20日間という長い滞在で、瀬戸御殿を本拠にして鯨捕りと称して、水軍を訓練する意図があったと云う。 南龍公の一回のお成りが20日間という長い滞在で、瀬戸御殿を本拠にした。 この御殿守ったのは地下の鉄砲の上手な9人の者が馬部谷(馬目谷)に9軒長屋をたまわり、馬部谷から切り通しの道を南殿谷に交代でかよったと云う。 今もその子孫が九軒と云う姓をなのっている。九軒駒吉墓碑 但し、寛文2(1662)年〜嘉永7(1854)年まで紀州家の直領だった。 寛文2(1662)年 紀州藩に移され周参見組となる 元禄15(1702)年3月12日将軍吉宗公湯崎へ御成 主税頭の頃(ョ方) 元禄16(1703)年2月19日将軍吉宗公湯崎へ御成 主税頭の頃(ョ方) 注、この時代の湯崎とは、崎の湯のこと。 享保18(1733)年3月14日祇園南海、鉛山に遊ぶ 鉛山七境詩 19日白良浜、瀬戸、番所山方面を遊覧 寛政6(1794)年菊地 西皐 三山紀略之一節 嘉永7(1854)年 田辺領に移管(田辺領に復し田辺組に加えられた) 注、嘉永7(1854)年は安政元年 紀州家の殿様は代々延べ26回もお成りになり、特に頼宣公は12回も来られた記録があります。 参考文献、町誌 |
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